武豊の年収と獲得賞金、これまでの活躍と結婚・家族についても紹介
現在中央競馬には現在約150名ほどの騎手がいますが、そのなかでも知名度、実績共にダントツでトップなのが今回紹介する武豊騎手です。
すべてを記載すると膨大な文章になるので、本記事では要点だけをピックアップして武豊騎手のこれまでの活躍を紹介するとともに、気になっている人も多いであろう年収やこれまで獲得賞金、そしてプライベートな部分についても紹介していきます。
武豊騎手のプロフィール
(引用元:http://www.yutaka-take.com/gallery/detail.html?vol_id=1792)
武豊騎手のプロフィールを簡単に表にまとめました。
生年月日 | 1969年3月15日 |
血液型 | O型 |
初免許取得年 | 1987年3月1日 |
初勝利 | 1987年3月7日 |
重賞勝利数 | 270勝 |
G1勝利数 | 79勝 |
初勝利まで
武邦彦氏(引用元:https://jra.jp/datafile/meikan/retire/373.html)
お父さんの武邦彦氏は、「ターフの魔術師」と呼ばれるほどの名騎手でした。
4人兄弟の三男であり、弟の武幸四郎騎手もG1レースを勝利するような名ジョッキーでしたが、現在は騎手を引退し、調教師として活躍しています。
生まれた翌年に現在の栗東トレーニングセンターに引っ越したということもあり、幼いころから日常的に競走馬と触れ合える環境で育ちました。
また、お父さんが騎手であったということもあり、武豊少年もごく自然に「将来は騎手になりたい」という思いで少年時代を過ごしていたそうです。
小学生の頃から競馬に対して強い情熱を持っており、この頃にはすでに「日本ダービー」が特別なレースであるという認識を持っていました。
小学5年生になり、本格的に乗馬を習い始めたのですが、この頃から類まれなるセンスを見せており、騎乗姿勢が綺麗であること以上に馬をなだめる技術がずば抜けていたため、将来は間違いなくトップジョッキーになると太鼓判を押されていました。
この予想は後に現実のものとなります。
そして1984年春、念願だった騎手になるために騎手学校へ通うようになります。
騎手学校時代は空き時間に他の生徒や自分の騎乗姿勢をチェックして自習に励んだほか、馬学の知識を取り入れる勉強も積極的に取り組み、技術面だけではなく馬学でもトップの成績で卒業、1987年3月1日に騎手としてデビューを果たしました。
阪神競馬場の第4レースが初騎乗であり、同競馬場で開催された3月7日の第3レースにて初勝利を飾ります。
武豊騎手のこれまでの活躍を紹介
(引用元:http://www.yutaka-take.com/gallery/detail.html?vol_id=1797)
武豊騎手の活躍は多くの競馬ファンが知るところですし、記載したい事項はたくさんあるのですが、ここでは特に印象的な出来事のみをピックアップして記載します。
新人勝利記録を更新
武騎手はデビュー年からその類まれなる騎乗センスを開花させます。
秋競馬が始まる9月12日には早くも42勝目を挙げ、当時の関西新人勝利記録を更新。
さらに10月11日には京都大賞典を勝利し、デビュー年で重賞初制覇を果たし、さらに11月14日には59勝目を挙げ、新人勝利記録を27年ぶりに更新、最終的には69勝をマークし、新人勝利記録を大幅に更新する結果となりました。
競馬界の主役へ
翌1988年、菊花賞でスーパークリークに騎乗すると前を行く馬の気性を冷静に見抜き、内から突き抜けて2位の馬に5馬身以上の差をつけて勝利、19歳8か月という若さでG1レース初勝利を手にしました。
この年は最終的に113勝をマークし、史上最年少で関西リーディングを獲得、翌89年にはG1レースを4勝、年間勝利数を133と伸ばし、デビュー3年目で全国リーディングジョッキーの座に輝きました。
この頃から武豊騎手の事を「天才」と呼ぶ競馬ファンが増え、武騎手は翌年以降もその言葉通りの天才的な騎乗で次々に勝ち星を重ねていきます。
当時はバブル景気の真っただ中で競馬界も非常に好調であり、オグリキャップの登場などによって「第二次競馬ブーム」となっていたのですが、騎手部門では武豊騎手が知名度人気共に圧倒的にトップであり、名実ともに競馬界の主役へと躍り出ました。
1990年にはこのオグリキャップに騎乗し、安田記念と有馬記念を制します。
特にオグリキャップの引退レースとなった有馬記念では誰も勝てると想像しなかったオグリキャップが勝利、競馬史に残る感動的なレースとして現在も語り継がれています。
騎手はあまりメディアの取材には応じないという印象が強いのですが、武騎手は自ら積極的にメディアの取材に応じました。
武騎手は乗馬に通っていたころから「競馬業界は世間一般からはどこか偏見の目で観られているので、自分が積極的に外に出ることで少しでもそのイメージを払しょくしたい」という思いを持っており、それが積極的にメディアの取材に応じるという姿勢に繋がっています。
この努力は功を奏しており、競馬に興味を持っていなかった多くの人たちが競馬に興味を持つきっかけづくりに大いに貢献しました。
武騎手の努力があったからこそ、今の競馬はギャンブルという枠を超えた人気を獲得したといっても過言ではありません。
念願のダービージョッキーに
レースの外だけではなく、もちろんレースでもトップジョッキーとして獅子奮迅の活躍を見せていた武騎手だったのですが、どうしても獲得できないタイトルがありました。
それが「ダービージョッキー」という肩書です。
子供の頃から「ダービージョッキー」に強い憧れを抱いていた武騎手は、自分がダービージョッキーになる事を夢見ており、トップジョッキーであることから毎年のように騎乗依頼は受けるのですが、日本ダービー以外の八大競争をすべ勝利してもなお、日本ダービーだけは勝つことができませんでした。
いつしか競馬ファンの間で「武豊は日本ダービーだけは勝てない」というジンクスまで広まるようになりました。
当然このジンクスの事は武騎手も知っており、メディアなどの取材に対しては「ダービーは別に特別なレースじゃない」「ほかのG1レースと同じ」と、努めて冷静にコメントしていましたが、本心は全く真逆で、「自分がこれまで積み上げてきた勝利全てを引き換えにしても良いくらい、喉から手が出るほど欲しいタイトルだった」という気持ちだったと後にコメントしています。
そんな武豊騎手をダービージョッキーに導いたのが、「ウマ娘プリティーダービー」でも主役に抜擢されている名馬スペシャルウィークです。
武騎手は事前に「勝った時にガッツポーズをするのはやめよう、あくまでもクールに」と考えていたそうですが、実際は本人も恥ずかしくなってしまうくらいガッツポーズを繰り返すという結果になりました。
百戦錬磨の武豊騎手でさえ我を忘れてしまうほど、喜びに満ちた瞬間だったのでしょう。
ちなみに翌年の日本ダービーもアドマイヤベガで勝利し、ダービー連覇は当時史上初めての出来事でした。
サイレンススズカを覚醒させる
この頃、武豊騎手は未だに忘れることができない1頭の競走馬と出会うことになります。
その馬はサイレンススズカ、今でこそ稀代の逃げ馬として有名ですが、このころは後方に控える競馬をしていました。
しかし元来の気性難からかなかなか折り合いがつかず、その能力を全く生かせないまま「平地レースをたまに勝利する競走馬」程度の認知しかされていなかったのです。
武騎手が初騎乗したのは1997年12月のG2香港国際カップで、このレースでは5着止まりでしたが、武騎手はこの馬の能力の高さを見抜きます。
それまで後方に控えるレースをしていたサイレンススズカに逃げのレースを覚えさせ、翌年バレンタインステークスに出走すると4馬身差をつけて圧勝、その後の中山記念、小倉大賞典と重賞レースを連勝します。
続く金鯱賞では11馬身差の圧勝、その後武騎手は騎乗できませんでしたが宝塚記念を制してG1ホースになるなど、サイレンススズカを一躍名馬にした立役者となっています。
稀代の名馬ディープインパクトとの出会い
2003年には年間200勝という離れ業をやってのけるなど、2000年代に入ってからもトップジョッキーの座を維持し続けていた武豊騎手ですが、そんな武豊騎手をもってしても「今まで騎乗したなかで間違いなく一番強かった競走馬」と断言する1頭の名馬と出会うことになります。
それがディープインパクトでした。
武騎手はデビュー前に騎乗した経験があったのですが、騎乗した瞬間にその能力の高さを肌で感じ取り、半ば興奮気味に「この馬はちょっととんでもない馬かもしれない」と興奮気味に話していたそうです。
この言葉通り、ディープインパクトは破竹の勢いで勝利街道を突き進み、全く危なげなくクラシック三冠を達成。
古馬になっても天皇賞春や宝塚記念、ジャパンカップや有馬記念を制し、圧倒的な強さを見せつけたまま引退することとなりました。
その余りの強さに菊花賞では単勝元返しになるという珍事まで発生しています。
骨折によるスランプとキタサンブラックとの出会い
2010年3月27日のレースで騎乗中の競走馬が故障したことにより落馬、全治半年の大怪我を負うことになります。
治療期間中、武騎手は何もすることがなく、「自分が馬に乗れないと本当に何もできない人間なんだな」と痛感したそうです。
およそ120日間の休養を経て復帰しましたが、その時はまだ完治しておらず誤魔化しながら騎乗していたと後にコメントしています。
この怪我によって歯車が狂ってしまったのか、それまで年間100勝以上は当たり前だった武騎手の勝利数は突如半分近くにまで下がってしまいます。
特に2012年は年間56勝と低迷を極め、武騎手をもってしても「この頃は競馬があんまり楽しくなかった」と振り返らざるを得ないほど精神的に苦しい日々が続いていました。
しかし翌年、キズナで毎日杯の勝利し、この勝利が嫌な流れを払拭するきっかけとなり、続く京都新聞杯も勝利してキズナは日本ダービーの主役となります。
そして迎えた日本ダービー、キズナは1番人気に見事に応えて勝利、武豊騎手に5度目のダービー勝利をプレゼントしました。
この勝利は武騎手にとっても特別な勝利だったらしく、「この勝利はジョッキー人生にとって分岐点になるくらい大きい勝利だった」とインタビューで応えています。
2013年は年間97勝と一気に勝利数を伸ばし、翌年は久々に年間100勝を達成します。
そして2016年、歌手の北島三郎さんが馬主であるキタサンブラックの主戦騎手となります。
武騎手とコンビを組んだキタサンブラックは天皇賞春連覇を初め数々の大レースで勝利を積み重ね、キタサンブラックを稀代の名馬へと押し上げる立役者となりました。
感動のダービー6勝目
2018年9月29日、武騎手は4,000勝という前人未到の大記録を打ち立てます。
翌年ワールドプレミアで菊花賞を制したのですが、これが史上最高齢での菊花賞制覇となり、この瞬間武騎手は史上最年少と史上最高齢で菊花賞を制した騎手となりました。
そのほか、この勝利がその年の通算100勝目となって、昭和、平成、令和と3つの元号でG1レースを制した初めての騎手にもなったのです。
これだけのG1レースを勝利した武騎手であっても、朝日杯フューチュリティステークスとホープフルステークスには勝利していなかったのですが、2021年ドウデュースでそのうちのひとつである朝日杯フューチュリティステークスをついに制覇、残るはホープフルステークスのみとなりました。
そして翌年、同じくドウデュースで通算6度目のダービージョッキーに輝きました。
このダービーはそれまでかなり厳しく制限されていた競馬場の入場者数が大幅に緩和されて初めてのG1レースであり、東京競馬場には6万人近いファンが詰めかけていました。
そんな中でダービーを制覇するというのは、やはり武豊騎手は天運に恵まれているとしか言いようがありません。
賛否両論ありましたが、この時の「ユタカコール」は競馬史に残る感動の名場面であるといってよいでしょう。
武豊騎手の年収とこれまでの獲得賞金について
これだけの輝かしい成績を挙げている武豊騎手のこれまでの獲得賞金は恐らくとんでもないことになっていると容易に想像できるのではないでしょうか。
武豊騎手は日本のみならず、世界中の騎手の獲得賞金でダントツの1位となっており、その獲得賞金は2021年3月時点でおよそ860億円という常識外れの金額となっています。
競馬の競走賞金のうち、5パーセントが騎手の取り分といわれているので、武騎手がこれまで競走馬に騎乗して獲得した収入はおよそ43億円と算出されました。
年収に関してですが、騎手は騎乗した結果で収入が大きく変化するので、一概には言えませんが、競走成績などか年収を算出するサイトで調べた結果、2021年の年収は約9,500万円となっていました。
武豊騎手がこれまで騎乗した競走馬たち
(引用元:http://www.yutaka-take.com/gallery/detail.html?vol_id=1788)
武豊騎手はその騎手人生のなかで様々な名馬たちに騎乗し、結果を出しています。
「ウマ娘プリティーダービー」という実際の競走馬をモチーフにしたゲームに登場するキャラクターのうち約4割が武騎手が騎乗した競走馬をモチーフとなっていることからもそのすごさを垣間見ることができます。
本項目ではその中でも特に印象深い競走馬たちを厳選して紹介します。
スーパークリーク
武騎手に初めてG1レース勝利をプレゼントした競走馬であり、武騎手にとっても忘れられない競走馬の1頭として必ず名前が出てきます。
菊花賞出走前にどの馬に騎乗しようかと1頭ずつ見て回っていた際に最後にチェックしたのがスーパークリークでした。
その時、スーパークリークは武騎手の袖を引っ張って離さなかったそうです。
この「逆指名」に運命を感じて騎乗した武騎手は天才的な手綱さばきでスーパークリークを導き、見事史上最年少のクラシックレース制覇を果たすこととなります。
オグリキャップ
オグリキャップは主戦騎手というほどの騎乗はしていませんが、共に「第二次競馬ブーム」をけん引する存在でしたし、何よりスーパークリークのライバルだったということもあって、武騎手も思うところがあったのではないでしょうか。
最大のライバルだったこの馬の引退レースに騎乗することになったというのも運命めいたものを感じずにはいられません。
有馬記念についての詳細はここでの説明は省くので、気になる人はYouTubeなどでレース動画をチェックしてみてください。
メジロマックイーン
メジロマックイーンは90年代のみならず、日本競馬界屈指のステイヤーであり、菊花賞を制した後、天皇賞春を連覇するなど、長距離では向かうところ敵なしでした。
武騎手は天皇賞にめっぽう強いことから「平成の盾男」という異名を持っていましたが、メジロマックイーンの圧倒的な強さがあったからこそ、この異名が誕生したのではないでしょうか。
スペシャルウィーク
「武豊はダービーにだけは勝てない」というジンクスを見事に払拭してくれた競走馬です。
先に紹介したとおり、ダービージョッキーというのは武豊騎手が喉から手が出るほど欲しかったタイトルであり、そのダービーを勝たせてくれたスペシャルウィークもまた、武騎手にとって忘れられない1頭であることは間違いないでしょう。
スペシャルウィークは武騎手自身の人気と見栄えの良さから非常に高い人気を誇っているだけではなく、その競走馬人生も実にドラマチックであり、「ウマ娘プリティーダービー」では主役に抜擢されています。
サイレンススズカ
あまりに思い入れが強すぎるため、武騎手はいまだにサイレンススズカについて率先して話そうとはしていません。
今でこそ稀代の逃げ馬、そして史上最強の1頭に数えられる名馬ですが、サイレンススズカの能力を覚醒させたのは間違いなく武騎手です。
宝塚記念では別の馬に騎乗しており、初のG1制覇を自らの騎乗でとはなりませんでしたが、最終目標である「天皇賞秋」において、再び騎乗することになります。
夏に十分休養し、見た目にも万全の体制だったのですが、レース中に突如故障、そのまま予後不良によって処分となってしまいました。
この悲しい出来事は別名「沈黙の日曜日」と言われ、競馬ファンにとってはあまりに有名な悲しい出来事のひとつです。
レース後、武騎手は「故障してしまった原因は分からないし、ない」と自身も信じられないとしか言いようがないコメントを残していて、レース後は泥酔するまでワインを飲んで号泣していたそうです。
その武騎手の姿を見た福永祐一騎手は「あんなに乱れた武騎手を見たのは後にも先にもあの時だけ」とコメントしています。
次に紹介するディープインパクトと勝負するとしてどの馬に騎乗するかという問いには迷わずこの馬の名前を挙げており、ディープインパクトに唯一勝てる可能性がある競走馬と断言していることから、武騎手がサイレンススズカをいかに評価しているかが分かります。
ディープインパクト
日本の競走馬のなかで、オグリキャップに匹敵する知名度と人気を誇る名馬です。
競走馬としてだけではなく、種牡馬としてもコントレイルをはじめ数々の名馬を産出しました。
この馬の勝ちパターンは最高峰からの驚異的な末脚によるごぼう抜きで、誰が見ても強い勝ち方をしていますし、何より勝ち方が派手ということもあって、馬券でも圧倒的な人気を常に誇っていました。
ある取材で「ドラえもんの秘密道具がひとつだけもらえるなら」という問いに、「タイムマシンで凱旋門賞の日に行って、ディープインパクトに勝たせてあげたい」とその思いを語っています。
キズナ
武騎手は2010年に落馬して骨折、全治半年近くの怪我を負ってしまい、それ以降長期的にスランプに陥ってしまいました。
そんな武騎手にスランプ脱出のきっかけを作ってくれた競走馬がこのキズナです。
キズナは5回目のダービージョッキーも武騎手にプレゼントしており、この勝利によって完全にスランプを脱出、以降の活躍に繋がっています。
キタサンブラック
サイレンススズカと同じく逃げ戦法でその能力を開花させた競走馬の1頭がキタサンブラックです。
サイレンススズカとはまた違った逃げ方で、相手に追いつかれるかどうかというギリギリのペースで逃げ、最後の直線でスパートをかけて突き放すという走りが持ち味です。
北島三郎氏が馬主であるということでも話題となり、G1レースを勝利した後の「まつり」の熱唱は当時の恒例行事となりました。
ドゥデュース
現在主戦として騎乗している競走馬のうちの1頭がドウデュースです。
武騎手がずっと勝利できなかった阪神ジュベナイルフィリーズで勝利し、皐月賞では惜しくも2着に敗れるものの、続くダービーでは最後方から抜群の末脚を見せ、レースレコードでダービー馬となりました。
その後、凱旋門賞は悪天候の影響もあり惨敗してしまいましたが、帰国後はまた強い走りを見せてくれることでしょう。
武豊騎手は結婚している?
(引用元:https://www.youtube.com/watch?v=2vIckX2fyGI)
武豊騎手が結婚していることは競馬ファンには有名です。
奥さんは元アイドルの佐野量子さんで、結婚後はほとんど公の場には姿を表しませんが、公私で武騎手を支えています。
佐野さんの支えがあるからこそ、今の武豊騎手の活躍があるのでしょう。
巧みな話術センス
武騎手は関西出身ということもあって、騎手とは思えないほど巧みな話術センスを持っています。
交友関係が広い武騎手は明石家さんまさんやダウンタウンとも親交があるのですが、彼らとトークをしてもそん色ないような抜群の切れ味を披露してくれます。
また、勝利後のインタビューなどでも武騎手にしか思いつかないようなコメントを残しており、その話術が競馬が広く知られるきっかけづくりをしたことは間違いありません。
ウマ娘おじさんとして若い人にも認知されている
競馬をモチーフとしたゲームとして、一大ブームを巻き起こした「ウマ娘プリティーダービー」ですが、登場するキャラクターのモチーフとなった競走馬のうち、4割近くが武騎手が騎乗した経験がある競走馬となっています。
武騎手は同ゲームのプロモーターにも就任しており、アニメでは本人役として登場、自身が騎乗したスペシャルウィークと日本ダービーについて語るシーンもあります。
このことから若い世代からも武騎手は認知され、一部では「ウマ娘おじさん」と呼ばれているそうで、その話題が出たときに苦笑している場面もありました。
何度か不倫現場を撮影されてしまった過去も…
競馬界のみならず、武豊という騎手を知らない人はいないのではというほどの人であることから、交友関係も非常に幅広く、あのイチロー選手とも20年以上親交があり、自主トレなどを一緒にしているそうです。
もちろん芸能界にも友人知人は多いですし、そういった付き合いから綺麗な女性とも出会う機会も多く、過去には既婚者でありながらついつい芸能関係の若い女性と一夜を過ごしているところを芸能誌にスクープされてしまうことが度々ありました。
最近では2020年にとある女性タレントと路上でキスをしたことがスクープされたことが記憶に新しいのではないでしょうか。
しかし、それをきっかけに離婚をするといった話になったことは今まで一度もありません。
そういった報道が出る度に奥様である佐野量子さんがベストといえる対応をし、騒動を最小限に食い止めています。
武豊騎手がレジェンドと言われる理由
(引用元:http://www.yutaka-take.com/gallery/detail.html?vol_id=1720)
武豊騎手がなぜ「生けるレジェンド」と言われているのかというと、彼自身が保持し、更新し続けている記録があまりにも多すぎるからです。
全て紹介することができないので、特に凄いものだけをピックアップすると、まずは通算勝利数は4350勝を軽く超えています。
ちなみに2位の岡部幸雄元騎手は2943勝で、武豊騎手の勝利数とは軽く1,000勝以上も離れています。
もちろんこの記録はいまだに更新し続けられており、最終的にどこまで伸びるのかは武豊騎手自身も分からないでしょう。
この記録を破る騎手は今後現れないのではないでしょうか。
また、1996年2月〜1999年8月にかけて169週連続勝利し続けるという信じられない記録も持っています。
そして1勝するのさえも騎手の悲願である日本ダービーを6勝しているなど、とにかく凄いとしか言いようがありません。
まとめ
ここまで武豊騎手の活躍や騎乗してきた競走馬たちについて紹介しました。
ここで紹介したのはほんの一部であり、武騎手が成し遂げた偉業はまだまだ沢山あります。
武騎手ほどの成績を残すジョッキーは今後そう簡単には現れないでしょう。
今後も芸術的な騎乗を披露してくれる武騎手の活躍を見守っていきましょう。
もし、武豊騎手が日本競馬の悲願である「凱旋門賞」を制覇したならば、競馬界において歴史的な出来事になることは間違いありません。